2009/06/17

大阪駅物語(4) ~栄光からの転落と民営化編~

明治7年に大阪駅が誕生して以降、鉄道の歩みはそのまんま日本の近代史そのもので、あいだに戦争を挟んだものの、基本的には、右肩上がりの成長を続けてきました。

ところが、飛行機や自家用車、船舶という第2第3の陸上輸送機関の台頭により、経営に翳りが出てくるのですね。
で、昭和39年(1964年)、国鉄はついに赤字に転落してしまいます。
大阪駅物語第4弾は、ここからはじまります。

そもそも、空港も港も道路も、国や地方自治体の費用で整備され近代化されていったのに対して、鉄道の線路敷設も車両の整備も新駅の新設もなにもかも、国鉄は、自前でやってきたのですね。
加えて、石炭から石油へのエネルギー転換が、赤字路線を増やす結果となったのでした。
国鉄、というか鉄道そのものが斜陽産業となっていったのですね。私鉄は、沿線の都市開発や百貨店経営など、多角的に経営の手を伸ばすことで繁栄していくのだけれども、国鉄は、輸送一本ですから。

それでも、大阪駅は、駅ビルの店舗拡充などで、利便性を図るとともに、関連事業に力を入れて、少しは頑張ってきたほうですな。

それはともかくとして、大阪駅が本来の輸送業務でこの時期行なった改革としては、
昭和45年(1970年) 新快速がデビュー。
昭和48年(1973年) 環状線を経て奈良に達する快速電車がデビュー。
それ以外にも、お座敷列車などの新しい商品というかサービスも、開発されてます。
路線の延伸から、スピードアップやイベントなど、快適な移動に、サービスの主眼が転換されたわけですね。


そしてこのとき、関連事業として、大阪駅ビルの建設がはじまります。

大阪駅の正面に商都・大阪の玄関口にふさわしい駅ビルを建設しようとする動きは、昭和30年代の終わり頃からあったのですが、その計画が実際に動き出したのは、昭和52年(1977年)に、大阪市長の諮問機関であり、経済界や学識経験者から成る「大阪駅ターミナル問題懇親会」が発表した「駅ビル構想」からです。

この構想は、駅本屋を北側に移し、その跡地を利用して、地下4階、地上27階のビルを建設、百貨店をキーテナントとしてホテル施設を持った商業ビルを建設しようというものでした。まさに、今のアクティ大阪そのものですね。

これ、当時の金で総額500億円を超す超巨大プロジェクトから。すごいですね。

で、計画が実際に実行されることとなり、昭和53年(1978年)に駅北側に本屋と構内営業店舗を移転するための北ビル建築工事がはじまり、昭和54年(1979年)に駅長室が完成して、第4代目の駅舎がオープンします。初代からずっと駅の南正面にあった駅本屋が、初めて、駅の北側に移った瞬間でした。

これが、第4代目の大阪駅舎。…じゃなくて、駅ビルです(笑)もう、写真がない!



ようやく、今の再開発がはじまる直前の大阪駅の姿になってきました。

駅ビル本体の工事は、昭和54年(1979年)に完成。管理会社として、大阪ターミナル・ビル株式会社が設立され、大丸百貨店と大阪ターミナルホテルがメインとなって入居しました。

こうした駅ビル経営も経営改革の一環なのでビルト&スクラップがあるわけで、駅ビル建設をビルトとすると、スクラップの面では、合理化ですね。でも、合理化に反対する一部の国鉄職員がストに次ぐストを繰り返し、大阪駅でも中央コンコースでデモ隊のジグザグ行進が繰り返されたり、昭和40年代の半ばには、過激派による安保反対運動の標的にもなったりした大阪駅なのでした。線路の砕石がデモ隊の投石の武器にならないよう金網を張ったり、工事材料を鉄板で囲んだりと、ま、いろいろとケアしなければならないことも多々ありました。

紆余曲折はいろいろあったのですが、それでも業務の合理化は進み、大阪駅では、昭和55年(1980年)に小荷物扱いの縮小、アウトソーシング化に取り組み、昭和57年(1982年)には駅員による小荷物扱い業務がすべて姿を消してしまいました。駅から赤帽さんが消えたってことですね。

さらに、大阪中央郵便局のところから、地下道を通じて扱っていた郵便物の鉄道輸送も廃止され、荷物列車、郵便列車が完全に大阪駅のホームから消え去り、駅の西半分の荷物扱い場所は、がらんどうになってしまったのでした。


旅客扱いの自動化、つまり自動改札機の導入、案内所業務のアウトソーシング化、案内掛の合理化、荷物列車全廃を契機にして入れ替えや輸送業務の縮小など、昭和60年前後は、業務の効率化と人員の縮小が続けられました。

このような再建策が国鉄全般にわたって行なわれたわけですが、国鉄の経営は一向に好転せず、累積赤字は年々増加し、ついには、自力での再建などまったくおぼつかない事態となったのでした。

結局、国鉄改革と再建の方策は、首相の諮問機関としてつくられた「国鉄再建監理委員会」の答申に基づいて分割民営化されることになり、東日本、東海、西日本、北海道、四国、九州の6つの旅客鉄道会社と全国を一気通貫する貨物会社を設立し、債務処理を主任務とする国鉄清算事業団を設置することなどを盛り込んだ「国鉄改革関連法案」が昭和61年(1986年)に国会で成立し、昭和62年(1987年)に、JR各会社が発足したのでした。

で、JR西日本の本社は旧大鉄局に置かれ、大阪駅は、その所在駅となったのでした。

ところで、国鉄清算事業団が抱えた国鉄の債務を弁済するために税金がつぎ込まれているのですが、その税金の原資とするために、タバコ税が割り当てられ、後年、タバコの値上げの一因となっています。なので、JR各社はホワイトナイトである喫煙者を優遇する道義的な義務があると思うのですが、JR発足以降、喫煙者の虐げられかたはひどすぎると僕は思うのですが、いかがでしょうか?


それはともかくとして、JR西日本となった大阪駅は、地域に密着し、ユーザー本意の輸送サービスを提供することを経営理念に掲げています。郵便局も電電公社もそうでしたが、お役所に、ユーザー本意という発想はないですから、どこも、民営化にあたってはコペルニクス的転換が求められますね。

その点、JRというか、大阪駅は、頑張ったほうだと思います。
象徴的だったのが、構内営業店舗が、それまであった駅の業務施設を移設してまで、特等場所に移ったことでした。業務のためのスペースを駅の一番便利な場所に置くというのが官の発想だけれども、民だと、そこは一番稼げる場所、ユーザーにもっとも使ってもらいたい場所、という発想になりますから、そうなります。

このあと、荷物扱い場所が廃止された駅構内西側のスペースには、平成3年(1991年)、ギャレ大阪がオープンします。

以上が、これまでの大阪駅を俯瞰で見た歴史。
現在は、1日に約90万人の乗降客と、1日に約30万人の乗り換え客が利用する、やっぱり超巨大駅です。

次回は、いよいよ最終回。
大阪駅の未来計画です。



JR大阪駅
大阪市北区梅田3-1-1

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