2009/11/18

北ヤードの下を東西に走る梅北道路(北梅田地下道)今昔物語



梅田は芝田の交差点から新梅田シティに抜けるのには、北ヤードを越えねばならず、北ヤードの下を全長約200mの地下道が走ってます。

大淀側に新梅田シティができたころからこの地下道の存在がクローズアップされ、人の行き来も大幅に増えたのですが、さてこの地下道、いつごろできたんでしょうかね?

地の方にお話を伺ったり北区史などの資料を引っくり返して調べてみると、1909年(明治42年)、国鉄(当時)の梅田貨物駅がつくられる以前、芝田-大淀間には梅北道路という道がありました。

1909年(明治42年)、梅田貨物駅が現在の北ヤードに敷設されたことで梅北道路は取り壊され、梅田と大淀が分断されてしまった状態になります。
そこで、地元の有力者が「梅北道路復活期成会」を結成し、当時の鉄道省(国鉄を管轄していた省)に陳情し、今の地下道ができます。1928年(昭和3年)のことです。名称は、北梅田地下道。
現在、町会などで地域の奉仕活動を行っている方々のおじいさんにあたる世代が、地下道実現のために走りまわったと聞いています。


道路の必要性が説かれたのは、商業的な理由はもとより、子供たちの通学路を確保することが大きな目的だったそうです。通学するためには、大きく迂回しながら貨物専用駅の引き込み線を渡らなければならず、通学路を短くし、地元の子供たちの教育を充実させたいとの思いから、陳情が行なわれました。

そのときの様子が刻まれたプレートが、地下道の芝田側の入口にあります。




陳情を行なった地元の有力者たちのお名前が刻まれ、
「至誠をして動かざるはなし是ある哉」
「悦び堪へず 只管 聖代の恩澤を謳歌する」
と、記されています。
このとき、地下道建設に動いた地元の有力者たちのご子孫は、今もやはり地元の有力者として、地元で奉仕活動をされています。
芝田や地下道のある大深町も今となっては住民票を置いて暮らしている人たちの少ない地域ですが、それでもこの場所に縁のある人たちは、今でも地域を下から支えていて、防犯や防災、福祉、地域振興などの方面で奉仕活動をされています。

ところで、このときの陳情の様子や経緯などを調べてるんですが、ほら、鉄道省という省庁自体が今はないので、どこを探しても資料がないです。大阪の建設局も管轄外だし、郷土史関係の本をあたってみても、なーんも出てきません。どうすればいいんでしょうかね?


さて、そのようにしてできた地下道ですが、当時は、車も人もバイクも自転車もごっちゃになって走っていたそうです。まだ交通量も少なかったので、そういうことが可能でした。
車道として利用されていたわけですから、現在のように階段を降りて地下道に入っていくのではなく、地下道の両サイドはスロープになっていました。ですから、雨天のとき、地下道は見事に浸水していたそうです。
地下道と梅田貨物駅のあるエリア、大深町は、かつての字名「フケ」に由来しており、「フケ」は「深田」を略したものと見られ、泥土の深い田を表していると考えられています。
地名にも表れているとおり、水が豊富な土地であったことと換気の設備も整っていなかったため、地下道は普段からカビ臭く、雨が降るたびにたびたび浸水したとのことです。また、街灯も少なく、昼間でも薄暗い地下道でした。

内壁がキレイに塗装され、街灯も増え、換気や排水の設備も整えられ、現在の様子になったのは、新梅田シティができた1991年(平成3年)のことです。
新梅田シティ竣工を機にこの地下道の利用者が増えるだろうことが予想され、快適に歩行できる道を、ということで、現在のようにリニューアルされました。もちろん、すでに車の乗り入れは禁止され、歩行者専用道路となっています。



2011年の街開きを目指して、現在、北ヤードは急ピッチで再開発が進んでいますが、将来的には、地上に車両専用道路を建設し、現在の地下道は引き続きそのまま歩行者専用道路として残すことが計画されています。

途中、トンネル内の現在地を示すプレートが、いくつもあります。これで確認しないと現在地がわからないくらい、長いですから。




チャリは押さなければならないのですが、乗って走らせてる人も多くて、ちょい危険です。




大淀側の入口には、枕木でつくられたオブジェが壁に埋め込まれてます。大阪市のマーク「みおつくし」に似てるけど、ビミョーに違います(笑)




トンネルのうえは、こんなふうに貨物が走ってます。






まちづくりの基本計画によると、AブロックとBブロックのあいだを東西に走る道が、現在の地下道にあたります。そのうえの地上に、車両専用の道路の建設が計画されています。








梅北道路(梅北トンネル)
大阪市北区大深町1

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